鹿児島中央口からバスで南に下り、2時間なんと山奥、こんなに、山へ山へと、この向こうに何があるのかと不安に思いながらのバス旅、チェコからの観光客ものっておられましたが、私以上に不安だったことでしょう。しかし山が下りに入りますと、そこには、整然とした田舎の町がありました。
下車してすぐに、知覧町マップ片手に、江戸時代半ばに作られた、知覧武家屋敷が、整然と並んでいて国の名勝に指定されていました。母が岳を借景に美しいん街並みです。
悠久の時を超えて、7件のお屋敷が公開されていました。
まるで薩摩の小京都です。ジリジリ照りつける太陽には
変わりないですが、江戸時代にタイムスリップしたような氣分でした。
居間の縁側から庭園をながめますのは、まさに、京都です。
そんななかで、ちょっと休憩カキ氷たべました。
次にタクシーで、『特攻隊の平和会館』へ。10 代後半から20歳前後の優秀な若き青年の遺書と写真また、使用された飛行機、一人乗りの特攻機の焼けただれた、機体など、また最期に親族に残された、手紙なぞなぞ1300人以上の遺書拝見いたし、なんとゆう残酷な戦争であったのか?私は当時昭和20年には5歳でした。
次にタクシーで、『特攻隊の平和会館』へ。10 代後半から20歳前後の優秀な若き青年の遺書と写真また、使用された飛行機、一人乗りの特攻機の焼けただれた、機体など、また最期に親族に残された、手紙なぞなぞ1300人以上の遺書拝見いたし、なんとゆう残酷な戦争であったのか?私は当時昭和20年には5歳でした。
大阪で毎日づきんをかぶり、家の周りをうろうろしていた気憶ございます。
沖縄につづき南九州は、またこの知覧は陸軍の特攻基地だったのですね。
生々しいスライドも見せていただき、この思い出を、戦争を知らない世代に語り継がれなければならないと、硬くおもいました。
道路をはさんで、1300人以上の追悼の灯篭がならんでいました。
たった一人での短い旅でしたが、訪ねてよかったと深く
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